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朴 泰俊(パク・テジュン、1927年10月24日 - 2011年12月13日)は、大韓民国の政治家・実業家。浦項総合製鉄(現・ポスコ)の設立者や、第32代国務総理として知られる。号は青岩(チョンアム、)。その功績から「韓国のカーネギー」とも呼ばれている。 == 略歴 == 慶尚南道東莱郡(現在の機張郡)に生まれる。6歳の時に日本へ渡り、以降日本で育つ事となる。1945年に早稲田大学機械工学科に入学したが、終戦により大学を中退し、帰国した。その後、1948年に陸軍士官学校を卒業(6期)して、少尉に任官した。 朝鮮戦争時には、忠武武功勲章や花郎武功勲章を授与された。士官学校を卒業した当時の韓国軍将校の多くは、政府の措置によって、4年制大学の学士学位課程を履修していた事もあって、朴自身も1961年には檀国大学校に編入し、1963年8月に法学部政治学科を卒業した。 1961年の5・16軍事クーデターには直接関わることは無かったものの、朴正煕からはクーデターに失敗した場合は、自分の家族を任せると言われ、国家再建最高会議の委員として活動しながら、第一次五ヵ年計画の立案に関与した。 1963年に、少将を最後に予備役に編入した後は、経済界に身を移し、1964年には大韓重石の社長に任ぜられ、1年後に同社を黒字経営に転換した。1968年4月には、浦項総合製鉄の初代社長に就任し、10年後の1978年には、年間550万トンの鉄鋼を生産する世界屈指の企業にまで成長させた。浦項製鉄を経営していた際は、社員の福利厚生の充実にも熱心に取り組み、当時の韓国としては最高水準の住宅団地を造成し、社員の子女達の為の小・中・高等学校も設立した。朴正煕との関係も続き、1970年に政界からの圧力で必要な核心施設の購入許可が下りず、大統領となっていた朴正煕に相談しようか迷っていた朴泰俊に対し、朴正煕が1枚の紙を渡して望むことをすべて書けと命じ、朴泰俊の要望を一目した朴正煕が紙の左側上段に直筆で署名し承認を与えたという逸話も残っている。 教育者としても活動し、1986年にはアメリカのカリフォルニア工科大学をモデルとした浦項工科大学校を創立した。 1980年10月に発足した国家保衛立法会議(第五共和国憲法施行に伴って解散された国会の機能を代行するために設置された)の経済第一委員長に就任した事をきっかけに政界にも進出し、1981年3月の第11代国会議員選挙に民主正義党全国区候補として出馬、当選した。以降は、国会財務委員長を務めたほか、1988年には党代表に就任した。1990年1月30日に、統一民主党・新民主共和党との3党合同によって民主自由党が成立した際は、党最高委員となったが、金泳三と確執を深めた事から、1992年の大統領選挙を控えて、国会議員を辞職した。 1997年7月、浦項市北区の国会議員補欠選挙に出馬、金泳三政権の経済面での失政を攻撃して当選し、政界復帰。同年11月には自由民主連合に入党して、党総裁に就任(11月21日)、金鍾泌らと共に金大中の大統領選挙当選を支援(DJT連合)した。 金大中政権発足後の2000年1月には国務総理に就任したが、不動産の名義貸し疑惑により、わずか4ヶ月で辞任に追い込まれた。 ポスコの名誉会長を晩年まで務めていた。1990年にはレジオンドヌール勲章コマンドゥールを授与された。 2011年12月13日17時20分、胸膜線維腫による後遺症により入院先のソウル特別市内の病院で死去〔韓国の朴泰俊元首相が死去=知日派、ポスコを世界企業に 時事通信 2011年12月13日閲覧〕。。死に際し李明博大統領や全斗煥元大統領など政界、財界から多くの弔問客が訪れ、朴の功績が讃えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「朴泰俊 (政治家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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